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DAIKOstyle西田の履歴書

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2023/05/25

こんにちは!東大阪を中心とした大阪・奈良で高断熱高耐震の木の家専門店として注文住宅を建てるDAIKOstyle西田です。

今日は、自分の事を書きたいと思います。DAIKOstyle西田がどんな人間か、しばしお付き合いいただければと思います。

プロフィール

【生年月日】 1982年(昭和57)7月13日

【出身地】 大阪府東大阪市

【家 族】 妻、長女、次女、長男 (5人家族です)

【資 格】 二級建築士・新住協Q1.0住宅マスター会員・木構造マイスター準1級

【趣 味】 庭いじり・アクアリウム・映画鑑賞・ミスチル

【血液型】 B型(熱しやすく冷めにくい一途なB型です)

【好きな言葉】「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」 ~上杉鷹山~

【休みの日の過ごし方】 アクアリウム水槽の水換え、庭じり、家族でお出かけ

【仕事】 DAIKOstyleの事業部長として、お客様相談、打合わせ、基本設計、実施設計、設計監理、見積、広報などなど

     すまい手の夢の家づくりの実現のため家づくりの勉強はずっと続けています。

 

簡単に自己紹介を。大工の父のもとに生を受け、いずれは自分も建築の道へを漠然と考えていた少年時代。社会人では、建築の中でも住宅業界に携わってきました。著名な建築の諸先輩方のような華々しい経歴も学歴もありませんし、失敗と挫折だらけのこれまでですが、それでも夢をあきらめず、なんとか夢であった自邸を建てるここともでき、おかげさまでひとさまのお家づくりのお手伝いをさせて頂けるようになりました。そんな私のこれまでの半生をお話できればと思います。

 

生い立ち、家への強い想い

生まれも育ちも東大阪です。

東大阪市善根町。大工の父のもと長男として生を受けました。

※小学生1年生くらい?大工の父の軽トラの前にて

 

家族は両親、妹、祖父母の6人家族のごくごく普通の家族です。私たち家族は、大工である父が建てた家に暮らしていて、それは子どもながらに自慢でした。

私たちが住んでいた町は東大阪の中でも特に東、生駒山のふもと。山には川が流れ夏休みにはサワガニやザリガニを取りに行ったり、友達と家でファミコンで遊んだりという感じの幼少時代を過ごしていました。そして将来の夢は大工さんになって家を建てること。小学校の卒業文集にも、日本一の大工や建築家になると書いていました。

当時はバブル景気の時代です。大工だった父のおかげでどちらかというと今思うと裕福な方だったかもしれません。そんな中、母に癌が見つかり、発見から一年もせず母が亡くなりました。私が中学二年生、妹は小学六年生でした。まさに青天の霹靂でした。すでにそのころには祖父も亡くなっていて、家族は6人から4人へ。母親がいない家庭なんてクラスに一人や二人はいるものですが、当時はまさか自分たちがそうなるなんて思ってもみませんでした。母が亡ってからは、父も遠方での仕事が続き家を空けることが多くなりました。バブルの崩壊から余波を受けてだんだんと建築業界も厳しくなっていった時代です。その頃から家族はバラバラになっていったように思います。私が20歳の頃でした。父の取引先だった工務店が倒産し、仕事が回らなくなった父は、家を手放すになりました。自分で建てた家を手放すことは父にとって苦渋の決断だったはずです。

子どもの頃を過ごした家は、私にとって原風景です。家=家族に対する思いが、そのころから人一倍強くなりました。ある種のコンプレックスにも似たような強い憧れを抱くようになりました。そして、小学生のころからの夢だった自分の家 というものがより強いものへなっていきました。

 

学生時代から社会人へ

高校受験では、はじめは工業高校を目指しましたが、当時の担任の先生から、もう少し視野を広く持つために普通科を目指しては?今の学力なら、工業科よりも普通科の方を目指しては?との言葉から高校は府立の普通科へ進学。大学で工学部建築学科に進学しました。部活では体育会空手道部に入部。大学では意匠設計のゼミを選びましたが、どちらかというと部活の方が大学生活の中心でしたね。大学4年間の青春時代は勉学というよりも空手道部にささげたといってもいいくらいでした。3回生では主将を務め、いまでも同期の仲間や年の近い先輩とは交流があり、話をするともう20年も前の事ですが、ついこの前の事のように時間が戻ります(笑)

※写真は社会人なってからの物。帯は学生時代のものです。

妻との出会いも学生時代。もう20年以上の付き合いになります。

大学生活を建築よりも、むしろ空手道にささげた私でしたが、就職活動は住宅関係に絞り、某ハウスメーカーに就職。

営業設計という職種を選びました。住宅営業の世界。当たり前ですが、これがなかなか厳しい世界です。研修期間を終えて、配属された住宅展示場での一日目の仕事は飛び込み営業。研修では飛び込み営業はないよ。と聞かされていたのですが、違ったようです。というよりも、あれはおそらく度胸をつけるための訓練だったのかもしれません。展示場での案内を許されるようになってからも、なかなか飛ぶように契約ができるわけでもなく、2年弱で退職するまでに契約できたのは1件でした。同期の中でも私が一番最後でした。それでも、あの1件の契約は今でも忘れられません。定年を機に建て替えを考えておられたご夫婦でした。自分の親よりも上の年代。新人さんの情にはほだされたく無いと、当初仰られたご夫婦でしたが、最後はよく家で食事を頂いたりかわいがっていただきました。年賀状のやり取りも退職後もずっと続けさせていただいておりました。

そのハウスメーカー時代唯一の家の工事を見て、営業よりも自分は技術の仕事がしたいという思いが強くなり、設計事務所の門を叩きました。

しかし、これが考えが甘く、入所した設計事務所は建売の確認申請を主な業務としており、なかなか自社設計の案件もなく事務所と検査機関や役所を往復する日々。そんな中の姉歯事件です。耐震偽装で建築業界は大混乱。改正により確認申請も2か月ストップ。入所から1年弱で退職です。

求職活動をしながら、大工の父の仕事を手伝うことに。

そんななか、そのまま父と一緒に仕事をし大工になるという選択もあったのですが、プレカットが主流の時代。手刻みの仕事もなく和室の造作もない。仕事がなければ覚えることもできない、このまま父と一緒にいても父を超えることはできないと思い、工務店へ就職することにしました。

北摂では有名な社員50名ほどの中堅ビルダーでした。そこで現場監督として、家の着工から引渡、アフターと家づくりにかかることができました。昔と違い今の時代は分業化が進み大工は、木工事の範囲しか携わることができません。家の一から十までのすべてに関わることができるの現場監督の仕事は私にとって天職でした。25歳の頃です。それまではうだつの上がらない社会人人生でしたが、就職した工務店では新築分譲地やリフォームやなど様々な経験をさせて頂き、現場の仕事を覚えさせていただきました。やがて工務部の責任者を任されるようになりましたが、親会社の方針と合わず、地域工務店へ転職することになりました。

 

高断熱住宅との出会い

この地域工務店への転職が私にとって大きな転機となりました。前職とはうってかわり社長を含め5人ほどの規模。一人で何役もしなければならないため、これまでは現場監督のみとちがい、営業や広報もしなければなりません。ブログやSNS(当時はFacebook)を覚えたのもこのころです。これまでは参加したことのなかった建材店や社外研修、商工会議所などへも参加させていただくようになり、すごく視野が広がったのを覚えています。

高断熱住宅に出会ったのが私が28歳のころです。それから新住協で高断熱住宅の知識と技術をなどを学びました。30歳の頃には取締役を拝命し高断熱住宅の新築やリノベーション工事に携わらせていただきました。妻の実家の高断熱住宅への建て替えもこの頃の事です。高断熱住宅に出会い順風満帆のように見えましたが、人生山あり谷ありです。これがまたリーマンショックの影響で経営難に。会社は事実上倒産へ。そんな失意の中、縁を頂いたのが大幸綜合建設です。

※2014年8月新住協開催支部での事例発表会

DAIKOstyle設立の経緯

代表の表とは、新住協で一緒に高断熱住宅を学んだ仲。地元、東大阪で働くことになりました。大幸綜合建設では当初、公共事業や保育園の園舎増築工事など、これまで経験したことのない規模の工事を担当させていただきました。ある時、会社のご近所の方から雨漏れの相談を頂き、お話をしているうちにリノベーション工事へとなっていきました。そしてちょうど久々に新住協の研修会へ参加したことをきっかけに、私の中でくすぶっていた高断熱住宅への想いが、一気に燃え盛りました。そのリノベーション工事も高断熱化を提案。すまい手にも受け入れて頂き実現しました。

これを機に、高断熱住宅に特化した新築事業部としてDAIKOstyleを立ち上げるに至りました。

モデルハウス建設、ブランディング、ホームページリニューアルを経て、コロナ禍の中ではありましたが、おかげさまでこれまで12組のすまい手のお家づくりのお手伝いをさせて頂くことができました。

また一度はあきらめた子どもの頃からの夢だった自分の家を建てることもできました。それも自分の設計で、施工管理もして、仕様も高断熱高耐震、木の家と理想の形で。

これからの事

これまでの紆余曲折の中、住宅営業、設計事務所勤務、施工管理と住宅に関わるこれまでの経験が、奇しくも今の自分の仕事に活きています。現場監督時代は家の一から十までと思っていましたが、今では住まい手との出会いから、設計、工事、引き渡したあとのお付き合いまで、すまい手の暮らしに深く関わるお仕事をさせていただけるようになりました。

最近、息子の寝顔を見るとよく思うのですが、子どもの幸せは親の幸せだと実感するようになりました。今思うと、父も同じような想いだったのかもしれません。家にはいなくても、私たちが金銭面で不自由なく暮らせた事は父が必死で働いてくれて、家を売ってでも守ってくれたからなのだと思っています。(ちなみに父とは高校生以来、別で暮らしていましたが、自邸を建てるまでの4年間、私の家族と暮らすことができました。今でも休みの日は子どもたちの顔を見せに行きます(笑))

私にとって家とは家族そのものです。私の幸せの形は家族が家で仲良く暮らす事だと思っています。

人それぞれの家に対する思いも幸せの形も色々だと思いますが、家を建てたすべての人が幸せに暮らしてほしい、そう願っています。せめて自分が携わるすまい手の家づくりを、決して失敗のない家にしたいと思っています。

家族が幸せになる家。幸せでいられ続ける家。そして幸せは子や孫へと受け継がれていってほしいと願っています。

そのためには幸せな家族の暮らしが営まれる『家』という器には性能が必要だと考えています。快適、健康的、かつ経済的に暮らせる性能が家族を守ってくれます。そしてあってはならないことですが、性能が高く資産価値の高い家はいざという時に売却という形で金銭的に家族を守ってくれます。

自分の家を建てるという夢を叶えた今、次の夢はすまい手に寄り添い、すまい手家族の幸せを繋ぐ家づくりを続けること。1軒でも多くそんな家づくりをすることです。

 

 

DAIKOstyle 西田

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InstagramTwitterFacebookで家づくりのことを中心に、施工事例や現場レポートなどを投稿しています。

毎週月曜20時にライブ配信!YouTubeチャンネル『?に答える家づくり相談室 by新住協関西支部』 に出演中。

家を建てたいなと思ったときから次々あふれる疑問をプロに匿名で質問できるYouTubeライブ番組です。

 

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